足助城の復元
復元の構想ができるまで
足助に城を復元したいという考えは、相当古い時代からあり、その当時は、真弓山にではなく、飯盛山にと考えられていた。30年ほど前には、当時名古屋工業大学の城戸久教授に依頼して、飯盛山の山頂に建てる足助城の絵図面を作成したこともある。この計画は、いろいろな事情によって実現されなかった。
今回の足助城復元の直接の契機となったのは、平成元年に愛知県が構想を打ち出した、「愛知のふるさと事業」である。この計画は、県内各市町村の2億円以上のふるさとづくり事業に対して、愛知県が1億円の補助をするというもので、平成2年度から開始されている。
足助町では、平成2年が町制施行100年に当たり、新しいまちづくりのために、平成元年度から町民との懇談会やアンケート調査を実施した。その中で足助城の再建を望む意見が多く出されたので、愛知のふるさと事業を活用し、城跡公園足助城を2年計画で整備することが決定された。
復元の開始
最初に大きな問題となったのは、足助城の再建を飯盛山で行なうのか真弓山で行なうのかということであった。町民の考えの多くは、飯盛山での足助城再建にあったが、飯盛城跡は愛知県の史跡に指定されており、現状変更の許可の難しいこと、またその他種々の理由から真弓山に決定された。
次に「忠実に基づいた復元を行ないたい」ということであった。
を行なうために、足助城再建専門委員会を平成2年3月8日に発足させた。専門委員は、宮本長二郎氏(当時奈良国立文化財研究所)他3名である。
足助城の城主鈴木氏は1590年徳川家康が関東入国直後に浪人をし、城の絵図面等当時の足助城の様子を示す手だては、何も残されていない。そのため、私たちが考えた復元へのアプローチは、
- ・再建する足助城は、戦国時代の鈴木氏の城とする。
- ・事前に発掘調査を行ない、建物跡が検出できた場合は、それに基づいて復元をする。この場合、遺跡保存の考えから、遺構面の保護を考慮する。
- ・発掘調査で建物跡が検出できない場合は、戦国時代の山の上にある城館をモデルに再建する。ただし、石積みの上にある白亜の天守閣は造らない。
- ・単に城館のみの復元に止まらず、戦国時代の生活を浮かび上がらせるように工夫する。
足助城再建専門委員会と同時に、足助城跡発掘調査会を発足させ、平成2年6月から発掘調査を開始した。
発掘調査は、平成2~4年度まで3年に渡って行なわれ、
本丸、北腰曲輪1・2、南物見台、南の丸、南の丸下堀、西物見台、西の丸、西の丸腰曲輪1、本丸腰曲輪3、南腰曲輪1
を調査した。
発掘調査の成果をまとめると、
- ・鎌倉時代から南北朝時代の足助氏の遺物・遺構は、認められない。
- ・出土遺物は、15世紀後半から16世紀後半のものが主体である。出土遺物から見ると、当初は軍事空間的な役割のみが強かったが、16世紀前半以降は、生活空間的な役割も加わった。
- ・調査した全ての曲輪から建物の痕跡が認められる。掘立柱建物が中心で、かなりの規模の建物が想定できる。
- ・本丸・西の丸の建物は、2期以上の時期が認められる。
- ・落城した記録が残されいるが、焼け落ちたような痕跡は認められない。
- ・南の丸では、柱穴列に沿って石置き屋根に使われたと考えられる石が数多く置かれており廃城の段階で取りはずされた可能性が高い。
- ・曲輪間を結ぶ道が確認できた。道のあり方を考えると、守りを主眼においた築城方式である。
建物の復元
発掘調査で検出された建物跡は、本丸で3棟(他に門が1)、北腰曲輪1・2で各1棟、西物見台で1棟(他に塀が1)、西の丸で3棟、南の丸で2棟、本丸腰曲輪3で1棟(これのみは礎石建物)、本丸と南物見台を結ぶ堀で1棟(他に橋脚1)である。中には、地形に合わせて建てられたと思われる台形や平行四辺形の建物もある。これらの建物跡のうち、第1期工事(平成3年度)では、本丸に高櫓と長屋の2棟、南物見台に矢倉(この建物のみは柱穴が重複していて平面プランが確定できず想定復元)、本丸と南物見台を結ぶ橋が復元され、2期工事(平成4年度)では、西物見台に矢倉と塀、南の丸に厨2棟が復元された。
これらの建物は、発掘調査で検出された建物の平面プランに忠実に、また、遺構面を保護するために、1メートルの盛り土を行なって、元位置に復元した。
なお、真弓山では明治時代以降に数回公園化が計画され、新しい登山道が整備されたが、今回できる限り、戦国時代当時の道に直した。